空 海 の 名 句 (抜 粋)
監修:山折哲雄 エッセイ:上山春平 解説文:正木 昇 『空海の世界』 佼成出版社 ヨリ


 

(其の二十三) 吾 れ 永 く 山 に 帰 ら ん


吾れ永く山に帰らん。
吾永帰山。
( 『御遺告』 『空海僧都伝』)

私、空海は、高野山に帰り、永遠にその地にとどまるであろう。

五十代の後半あたりから、空海は体調にしばしば不備をきたしたらしい。当時の平均からすれば、五十代後半という年齢は、充分に老齢と言ってよい。現に長年のライバルだった最澄は、五十六歳で亡くなっている。空海が死の準備を始めたとしても、早すぎることはなかった。ここに引用した承和元年 (834) 、彼が弟子達に発した言葉には、自らの死を予感した空海の万感の思いが込められている。
空海在世中の高野山は、いまだ広大な原始林に囲まれた、人跡まれな領域だった。空海は、この聖域に、己の夢を実現すべく、数々の伽藍の建設を進めてはいたが、いくら朝廷の援助があったいっても、寺院建立は思いにまかせなかった。
しかし、その一方で、空海は妙に恬淡てんたん なところがあった。つまり、現実家のしたたかさと、厭世えんせい 家のナイーブさとが、一人の人格の中に同居しているのである。この点は、若い頃、立身出世を嫌って出家してしまった精神と、どこかつながっているように思える。あるいは、熾烈な欲望と、悟りを求める清浄な心とが、渾然こんぜん 一体となって、空海という肉体の内部に巣くっているとも思える。
かくて、空海が選んだ終焉の地が高野山であった。権力の中枢に近い京都に位置する東寺を選ばなかったのは、多分、以上のごとき理由によっている。もし、それに付け加えるところがあるとすれば、空海がつくりあげようとしている新来の密教教団のためにも、聖俗二つの中心を持たせようとしたせいではないか。ともすれば、権力に り寄りがちな人間一般の傾向に、空海ほど通暁つうぎょう していた人物もまたといなかった。空海は、あえて高野山において没することで、そのことを言いたかったとも映る。

Next