![]() 「 第1章 序章・頼家 」 |
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「和歌は、人の心を種として、萬の言の葉とぞなれにける。」 『古今和歌集』、仮名序の書き出しです。 人はなぜ、詩を口ずさむようになったのでしょうか。 その源は、この地球に人間が誕生したときにさかのぼります。 人が地球という厳しい自然環境のなかで生存していくには、 集団として力を合わせていくよりほか、方法はなかったでありましょう。 そのコミュニケーション手段として、言葉は重要な役割を果たしました。 集団の生活の中で、人々は喜怒哀楽を言葉で表現しました。 仲間たちから、共感をえる言葉は、詩として洗練されていったのです。 歌は訴えるという言葉と同じ根を持つ言葉です。 人の心を種として生まれた詩は、まず神へ、そして仲間への訴えとして リズムと抑揚がつけられて歌われたのです。 静かに目を閉じてください。 遠い万葉時代の多摩川で、自らの手で紡いだ布を晒す乙女の姿が甦ります。
言霊の幸わう大和の国に蘭学が芽生え、人々の目はようやく海の外へ向けられようとしていました。 頼山陽の父春水は、広島竹原の商家に生まれましたが、大阪に出て片山北海の門に学び儒者の道を選びました。 郷里に弟たちを残し、異郷で勉学に励む春水の詩があります。
二人の弟、頼春風と頼杏坪です。春風は家を継ぎ、家塾を開いて医者を業とし、杏坪は儒者となって、兄春水と同じく藩に出仕しました。
この優秀な兄弟を、世の人は三頼と呼んで畏敬を表したのです。
儒者となった頼春水は、目覚しい業績を挙げていきます。
寛政の三博士と謳われた古賀精里、尾藤二洲、柴野栗山らと力を合わせ、朱子学を幕府公認の官学と定めていきました。
松平定信の寛政の改革に於いて、教育の分野で大いに力を発揮したのです。
尾藤二洲は詩を人生の彩りとして愛し、寛いだ心の拠りどころにしていました。
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