![]() 「 第4章 遊歴・終焉」 |
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文政元年、西暦一八一八年。 父・春水の三回忌を終えた頼山陽は、九州の旅に出かけます。 松尾芭蕉のおくのほそ道の旅がそうであったように、頼山陽はこの旅で自らの詩の世界を大きく広げます。
舟の旅の途中、山陽を乗せた舟を台風が襲い、生命の危険に晒されます。 見本のないテーマに命を与えたのは、そうした体験だったのかも知れません。 旅でであった亀井昭陽、古賀穀堂、草場佩川、辛島塩井、広瀬淡窓、田能村竹 田ら、あまたの詩友らとの邂逅も、詩人としての山陽を大きくしています。
母・静子、号梅?。 大阪の都会育ち、訪れる儒者たちと気軽に話す社交家でした。 煙草を嗜み、着るものもどこか一味違うセンスの持ち主でした。 春水の頑固・謹厳を振りかざす山陽への接し方を、ハラハラして見守り 陰に回ってとりなすのを常としました。 山陽はそんな母が大好きでした。 春水の没後、山陽は母を華やか社交の場に連れ出しました。 妻や細香を伴う嵐山の花見の席には、いつも母・静子の姿がありました。 まるで重しが取れたように、静子は息子と、宴席や詩の応酬を楽しんだのです。
五十歳を迎えて、山陽の行動に変化が生まれます。 まるで、死期を知ったかのように、著述の完成を急ぎました。 広島への帰省を繰り返して、母に別れの詩を作ります。 江馬細香への便りすらも絶えてしまいました。 その翌年、山陽は喀血を繰り返し、予告したように母に先立ってしまいます。
吐血して、意識を失っていく、山陽の耳にかって作った「蒙古来」の詩文が かすかに響いていました。死期を知った山陽に、予知の力が働いたのです。 浦賀の沖に黒船が渡来するのは、頼山陽の死後二十年、時代の大きな足音がすぐそこに迫っていたのです。
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