![]() 「 第2章 誕生・座敷牢 」 |
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広島の一商家を出自とする頼家が、官学の中心的な存在として頭角を現していく背景には、学問の奨励という時代の風潮があります。
そして何よりも、頼春水のひたむきで、たゆまぬ努力の結果でありました。
安永九年、西暦一七八〇年の暮れも押し詰まった十二月二十七日のことです。
頼家に一大慶事が訪れました。
春水と妻、静子の間に待望の男子が生まれ、名は久太郎と付けられました。
後に山陽を号とする、頼家の希望の星が誕生したのです。
久太郎は、聡明な子で、すくすくと育ちました。八歳で藩校に入り、句読を受け、夜は母・静子のもとで『論語』の素読を行いました。
十歳で『論語』を終了し、難しい『易経』に進んだといわれています。
十三歳の頼山陽が、志を述べた詩があります。
十三歳の少年の、けなげともいえる決意表明ですが、家族の期待に応えようする、背伸びの姿も見て取れます。
少年の心は、期待の大きさに耐えられず、やがて神経症を病んでしまいます。
目の前に黒い幕が垂れ、終日その鬱陶しさは、晴れることがありません。
寝覚めは、特に気分がすぐれず、発作のような癇癪を起こします。
山陽の様子に狼狽する母・静子の姿を見て、父・春水の堪忍袋も切れてしまいます。
順風満帆だった頼家に、不吉な暗雲が垂れ込めました。
江戸に遊学すれば、気分が変わって、病も癒えやすくなるのではないか。 叔父の頼杏坪が、山陽を伴って江戸に出るのは寛政九年、山陽、十八歳のときのことです。
杏坪は山陽を愛しました。若き甥の稀有な詩才を愛でたのです。
この子は大物になるぞ、杏坪は口癖のように言いました。
しかし、叔父の期待もまた、山陽の神経症には悪影響を与えました。 江戸遊学も山陽の神経症を癒すことはできなかったのです。
脱藩。封建の時代、藩の許可なく他国へ出ることは大罪でありました。
山陽の病は、最悪の結果を招いてしまいました。
廃嫡、そして座敷牢への監禁という強硬手段で、頼家の取り潰しは、辛うじて免れたのです。
座敷牢の日々は、山陽にありあまる時間を与えました。 来る日も、来る日も、読書のみで過ぎていきました。手にするものは歴史書です。いつか抜書きがたまり、「日本外史」の草稿となっていったのです。
座敷牢から解かれても、頼山陽の病は、完治したわけではありません。 飲酒と放蕩。目に余る生活に父・春水の嘆きは募るばかりです。 春水の親友であった菅茶山の廉塾の塾頭に迎えられるのは、見かねた茶山の助け舟だったと思われます。
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top 序章・頼家 誕生・座敷牢 江馬細香 遊歴・終焉 編集室より