邪宗門扉銘
ここ過ぎて曲節の悩みのむれに
ここ過ぎて官能の愉楽のそのに
ここ過ぎて神経のにがき魔睡に
 

詩の生命は暗示にして単なる事象の説明に非ず。かの筆にも言語にも言ひ尽し難き情の限りなき振動のうちに幽かなる心霊の欷歔をたづね、縹渺たる音楽の愉悦に憧れて自己観想の悲哀に誇る、これわが象徴の本旨に非ずや。 されば我らは神秘を尚び、夢幻をを歓び、それが腐爛したる頽唐の 紅を慕ふ。哀れ、我ら近代邪宗門の徒が夢寐にも忘れ難きは青白き 月光のもとに欷歔く大理石の嗟嘆也。暗紅のうち濁りたる埃及の濃霧 に苦しめるスフィンクスの瞳也。あるはまた落日のなかに笑へるロマン チッシュの音楽と幼児磔殺の前後に起こる心状の悲しき叫也。かの黄 臘の腐れたる絶間なき痙攣と、ヴィオロンの三の絃を擦る嗅覚と、曇 硝子にうち噎ぶウヰスキイの鋭き神経と、人間の脳髄の色したる毒艸 の匂深きためいきと、官能の魔睡の中に疲れ歌う鶯の哀愁もさること ながら、仄かなる角笛の音に逃れ入る緋の天鵝絨の手触りの棄て難 さよ。

邪宗門扉銘邪宗門秘曲謀 反月の出曇 日こほろぎ
ほのかにひとつ室 内 庭 園空に真赤な汝にささぐ

北原白秋の処女詩集『邪宗門』は、明治四十二年三月、易風社から半ば自費で刊行されたもので、白秋が二十五歳の時であった。
白秋は明治三十七年、二十歳の時に上京、早稲田大学予科に入学、同年に長詩「林下の黙想」を河井醉茗選の『文庫』 に発表して詩壇に現れ、翌三十八年、長詩「全都覚醒賦」を『早稲田学報』の懸賞に投じて第一位に当選、これも『文庫』に転載され、ようやく詩壇的に知られるところとなった
明治三十九年には、与謝野鉄幹に招かれて、その主宰する新詩社に加わり、はなばなしく『明星』にその作品を発表するようになった。その後、木下杢太郎、吉井勇、平野万里らと友好を深め、『明星』 のほかに『新思潮』などにも、先進薄田泣菫、蒲原有明らと並んで詩を発表、次第に天才的詩人としての文名を高めてきた。
かくして、白秋は杢太郎、勇、長田秀雄らの詩人や、石井柏亭、山本鼎、森田恒友、倉田白羊らの画家と、官能的耽美主義の芸術運動「パンの会」を結成するに及んだが、これが明治四十一年のことである。
『邪宗門』は、こうした環境の下に、新進としての文名を背景にして出版されたが、その斬新な装幀は、驚異的な内容ともあいまって、当時の詩会に異常な衝撃を与えた。
巻頭に揚げられた「邪宗門扉銘」はダンテの『神曲』「地獄編」第三歌冒頭の三行、「われ過ぎて、歎のまちに、われ過ぎて、いはの悩みに、われ過ぎてほろびの民に」 (上田敏訳) に模したと言われているが、序とともに、ここにもダンテと異なる官能的耽美主義のマニフェストを察知することができる。

〜〜〜 『日本の詩歌・北原白秋』 (中央公論社) ヨリ 〜〜〜