西 郷 隆 盛 漢 詩 集

「江戸漢詩選 (四) 志 士」 ヨ リ

(発行所:岩波書店 発行者:安江 良介 注者:坂田 新)

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西郷隆盛は文政10年 (1827) 10月22日、薩摩藩鹿児島城下の下加冶屋町に薩摩藩士西郷吉兵衛の長子として生まれた。幼名は小吉、長じて吉之助、父の死後には吉兵衛と称した。諱は隆永、明治以降は隆盛で通っている。 隆盛はもと父の諱である。南州と号した。

薩摩藩では士分の者に城下士・外城士・卒・陪臣の区別があり、城下士はさらに一門・門閥・一所持・寄合・小番・新番・小姓組・与力という家格の上下があった。
隆盛の家はいちおう城下士ではあるが、下級の小姓組に属していた。それでなくても貧しい下級武士である上に、西郷家では隆盛の下に次々と六人の弟妹が生まれてきたため、きわめて貧困のなかで育つことになった。

少年時代には藩の聖堂に読み書きを学び、二歳下の大久保利通 (1830〜78) はその頃からの友人であった。
やや長じて藩儒伊藤茂右衛門に従学し、かたわら島津家の菩提寺である福昌寺の無参和尚について参禅した。

天保15年 (1844) 18歳のとき郡方書役助という郡役所の書記見習となって出仕し、のち書役となって27歳まで郡方に勤めた。その間、嘉永5年 (1852) には祖父と両親をあい次いで失い、まだ幼い弟妹の養育は隆盛が責めを負わなければならなくなった。

嘉永7年 (1854) 正月、薩摩藩主島津斉彬 (1809〜58) は初めての参勤交代のため江戸へ出ることになり、にわかに隆盛を抜擢して中小姓に挙げ、江戸への随行を命じた。
斉彬は前藩主斉興の世子であったころから英明の誉れ高く、幕閣や諸侯間にも知られた人物であったが、斉興の愛妾お由良の生んだ弟久光 (1817〜87) を後継藩主にしようとする藩内の一派とに血なまぐさい抗争を経て襲封したばかりで、下級藩士の中から有為の人材を引き上げることに意欲を持っていた。
しかも隆盛はかって大久保利通と共に久光派の首魁を斬って藩政を正そうと計画したこともあったほどで、深く斉彬の知遇に感じた。

江戸では隆盛は庭方役を拝命し、斉彬の非公式の手足となって密事を扱い、ことに水戸藩の攘夷派をはじめ諸藩の人々と連絡をとりあい、藤田東湖とも面談してその人物に傾倒した。
やがて将軍継融問題が起こり、徳川慶喜を推す斉彬の意を受けて橋本左内らとも協力して種々の工作に当った。
ところが、安政5年 (1858) 7月に斉彬がにわかに国許で病没し、隆盛は京都で訃報を聞いて殉死することを考えるまでに思い詰めたが、勤皇僧月照などに諭されて斉彬の意志を継ぐ決意を固めた。

やがて安政の大獄が始まりだすと、月照の身にも危険が迫ってきたので、捕吏の手から守るために平野國臣 (1828〜64) の助けも借りて月照を薩摩に引き入れたが、斉彬没後の薩摩藩では島津久光が新藩主茂久 (久光の長子) の後見として藩政を握るようになって、諸事往年の如くにははならず、月照の身柄もかくまいきれぬことにたち至ってしまった。
窮地に陥って絶望した隆盛は、ついに月照とあい抱いて錦江湾に身を投げたのであった。
しかし、海から引き上げられた二人のうち、隆盛だけが息を吹きかえしてしまった。この事件によって、隆盛は大島に流罪となった。

文久2年 (1862) 朝廷と幕府の仲を斡旋して自藩の勢力を張ろうとした島津久光は、かって諸藩の人士と折衝した経験のある隆盛を呼び返して復職させ、下関まで先発してそこで久光を待つように命じたが、隆盛は従わずに京都へさっさと入ってしまった。これによって隆盛はふたたび徳之島へ、ついで沖永良部島に流罪となった。

元治元年 (1864) 長州藩および志士たちの多くが倒幕攘夷の方向へ進みつつある中、公武合体派の中心人物である久光は大久保利通の進言を容れて隆盛を赦免し、京都へ呼んで軍賦役に任じた。
10月には側役となり、これ以後は第一次長州征伐では征長軍の総参謀となるなど、薩摩藩を代表する人物として幕末の政局に身を投ずることになる。

やがて阪本龍馬らの仲介によって薩長連合が成り、慶応3年 (1867) 6月には薩長で倒幕を約議し、王政復古の大号令が発布されて後には大総督府参謀として東征軍うぃ率い、明治維新実現の最大の功臣となった。
明治の新政府となってからは、当初、鹿児島に帰って引きこもったが、明治3年 (1870) 暮れに詔勅をもって上京を促され、翌6月には木戸孝允 (1833〜77) とならんで参議に列し、事実上、政府最高首脳の一人となった。
岩倉具視・大久保利通らが欧米へ出ている間に懸案の朝鮮との国交樹立問題の解決のために隆盛自身が遣韓使として朝鮮に赴くことを決定したが、帰国した岩倉・大久保らによって否決されてしまったことから参議を辞して野に下った。

明治6年 (1873) 11月、鹿児島に帰ってからは私学校・砲隊学校を建てて士族子弟の教育の場を設けたが、隆盛自身はおおむね狩猟と農耕に悠々自適の日々を過ごした。
明治10年 (1877) 正月、年来の新政府への反感から、私学校生徒が鹿児島の陸軍省火薬庫を襲撃するという事態が生じ、ついに隆盛ともども1万5千の兵力で新政府へ尋問のためと称して進軍をはじめた。
しかし新政府軍との戦いに敗れ、9月に鹿児島に撤退、同4月24日、城山で負傷して別府晋介に介錯を命じて没した。
隆盛、51歳であった。