ことに吉田家は、代々山鹿流兵法を講じて長州藩の軍学師範となる家であった。ところが、この吉田大助が若くして没し、松陰は子供のいない吉田家に入ってその家を嗣ぐことになった。天保六年
(1835) 、松陰六歳のことである。 吉田家を嗣いだということは、松陰もやがて山鹿流兵法の奥義をきわめ、ゆくゆく藩の軍学師範として立たねばならぬ使命を背負ったのである。
経学史学の基礎となる書物から 『武教全書』 など軍学の書まで、父から、あるいは叔父玉木文之進から、畑仕事のかたわら厳しく叩き込まれていった。 天保九年
(1838) 正月からは、わずか九歳ながら藩校明倫館に兵学の教授見習として出仕するようにもなり、天保十一年 (1840) には藩主毛利敬親の前で 『武教全書』
を講じて賞賛を得たのは、周囲の人々の過酷なまでの教育のたまものであった。 そして、おそらく藩主にも少年松陰のけなげな秀才ぶりが心にとまったとみえて、この後、松陰が時として藩の規制を破って奔放な行動に走った時にも、藩主は好意あるはからいを惜しんでいない。
天保十三年 (1842) かねて松陰の訓育に心を砕いてきた玉木文之進は、藩庁から命ぜられた吉田家の家学後見人でもあるが、みずから新たに松本村新道に私塾を開くことになり、村名をとって松下村塾と名づけた。
松陰もさっそく兄 杉梅太郎とともに入塾して学ぶことになるが、これが後年、松陰が受け継いでいく多くの俊秀を育てることになる松下村塾の濫觴である。
この頃、松陰は家伝の山鹿流兵学のほかに、山田宇右衛門、山田亦介らについて他流の兵学も学ぶようになっており、山田亦介からはわずかの期間に長沼流兵学の免許を受けるまでにいたっているが、この両人からは兵学上の知識を伝えられただけでなく、常に世界の大勢に注意し辺防に疎漏なきを期すべきことを教えられた。
嘉永三年 (1850) 八月、藩庁の許しを得て肥前平戸の山鹿流宗家山鹿万介を訪ねるとの名目で萩を出発、年末まで約四ヶ月の九州周遊に出かけた。
松陰は筆まめなたちで、この旅の記録も 「西遊日記」 として残されているが、平戸・長崎では多くの書物を読み上げたなかに 『阿芙蓉彙聞く』 『阿片隠憂録』 『鴉片始末』
など、清国での阿片戦争 (1840〜42) の記録類が何冊も含まれていて、西欧列強侵攻の危機をかなり深刻に考えていたかと思われる。 そうした時に熊本で宮部鼎蔵
(1820〜64) と知りあった。 「西遊日記」 十二月十二日の条に、鼎蔵が訪れてきて 「談話深夜ニ至ル、是夜、月明朗、単行シテ清正公 (加藤清正の廟)
ニ豪気甚ダシ、宿ニ還レバ人定後ナリ」 とあるのは、詳しく談論の内容を伝えてはいないが、藩の隔たりを超えて天下同憂の士と深夜まで語り、煌々たる月あかりの下を豪傑然たる思いで歩んでいくという、志士気分のもっとも簡潔な表出である。
嘉永四年 (1851) 藩主の出府に遊学生として随行することになり、四月、萩を出発した。 江戸では安積艮斎・古賀茶渓・山鹿素水に学び、あわせて佐久間象山に弟子の礼をとることになった。
四つの塾に顔を出す一方、国事を憂うる一志士として他藩の士とも交わってともに天下を語ることはすでに九州周遊の経験で身についており、それにも忙しく日々を送ることになった。
やがて、江戸へ出てきていた宮部鼎蔵および江戸で新たに知りあった江幡五郎とともに東北地方を踏査しようと話がまとまり、この年の十二月十四日、うち連れて江戸を発った。
ところが、この度の東北遊歴については、藩庁の許可は下りていたものの手形に交付が出発を約束した期日に間に合わず、ついに松陰は藩邸から逃亡する形で参加したのであった。
「東北遊日記」 の冒頭に、 「有志の士、時平かなれば則書を読み道を学び、経国の大計を論じ、古今の得失を議す。 一旦変起こらば則戎馬の間に従い、敵を料り交を締び、長策を建てて国家を利す。
是れ平生の志なり。 然り而して天下の形勢に茫乎たらば、何を以って之を得ん」 と述べているのは、当時の松陰の心持をよく伝えている。
江戸からまず水戸に向かい、会沢正志斎を訪ねた。 会沢宅では儒者として知られた青山延于の長子である量太郎 (延光) が同席したが、 「量太郎は延于の子にして、本と天狗党たり。聞く、近ごろは奸党に駆使せられて史局に出入すと。
意うに所謂菎蒻党なる者ならん」 などと痛罵している。 その後、会津若松・新潟・佐渡・広前・盛岡・仙台などをまわって、嘉永五年 (1852)
四月に江戸へ戻った。 藩邸へは自ら待罪書を提出し、亡命の罪の処罰を待つことになった。藩ではひとまず帰国の命を下し、この年五月、松本村に帰って謹慎することになった。やがて十二月に入って、処罰は士籍および家禄を剥奪没収のうえ父杉百合之助の育みという事に決まった。ところが、松陰に期待するところのあった藩主毛利敬親は、処分の公布と同時に内々で百合之助に松陰の
「遊学許可内意伺書」 を提出するように指示し、結局、松陰は罪を得たとはいいながら、かえって自由に諸国を動けるようにしてもらえたのである。
嘉永六年 (1853) 正月、萩を発って大和、伊勢などを回り、木曽街道を通って六月には再び江戸へ入った。この旅でもまた、森田節斎・斎藤拙堂など、各地の知名士を訪れている。
江戸へ戻ると、ペリー来航という大事が持ち上がり、周囲の種々の議論をよそに、松陰はひそかに国外へ出る決意を固めた。 密航を謀ったとの罪で国元に幽閉されることになり、萩へ戻って野山獄に入ったのは嘉永七年
(1854) 十月二十四日であった。 これ以後、松陰は幕府からの呼び出しで江戸へ戻されるまで約四年半の間、一年ほどは野山獄にあったが、多くの時間は生家杉家で幽閉の形をとって過ごした。
幕末から明治にかけて、国事に奔走する多数の人材を輩出した松下村塾は、杉家に謹慎する松陰が叔父玉木文之進以来の私塾を受け継いで講学の主となったものである。
やがて安政六年 (1859) 五月、幕府大老井伊直弼による世にいう安政の大獄のなかで、松陰にも江戸召喚が命ぜられた。 幕府評定所での尋問は、安政三年
(1856) の十二月に梅田雲浜 (1815〜59) が萩へやって来て翌正月まで滞在していたが、雲浜とはいかなることを語り合ったのかとか、御所に落とし文があったが、その筆跡が松陰のものに似ているが覚えはないかとか、とりとめのないことばかりであった。
幕吏の誘いにのって所信を論じはじめたところ、つい激してしまったのか、昨年十一月に老中間部詮勝を要撃しようとの計画を考えたことがあると、言わでものことを漏らしてしまった。
これによって松陰の死罪は逃れがたいこととなり、十月二十七日、伝馬町の獄舎内で処刑された、 松陰、三十歳であった。 |